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ミホノブルボンが死亡

JRAによりますと、1992年日本ダービー(GI)を優勝するなどGIを3勝し、種牡馬引退後は、北海道沙流郡日高町のスマイルファームに繋養されていたミホノブルボン号(牡・28歳)は、2月22日(水)に老衰のため死亡したそうな。

ミホノブルボンは馬券を買い始めたころに活躍していたので色々と感慨深いものがあります。

ミホノブルボンのレースを最初に見たのは3戦目の朝日杯からです。馬券は当たった記憶があります。4戦目のスプリングSはサクラバクシンオーから買っていたのではずれました。皐月賞はライスシャワーから買っていた記憶があります。馬券ははずれましたライスシャワーは遅咲きのステイヤーというイメージで語られがちですが、夏の新潟で新馬勝していて、新潟3歳Sでも人気していて秋の芙蓉Sも勝っていたので穴狙いで買っていたのだと思います。

ダービーは田原成貴が乗っていたマヤノペトリュースの複勝が当たりました。ライスシャワーは買っていませんでした。京都新聞杯はミホノブルボンとライスシャワーの馬連は当たった記憶があります。菊花賞は何を買っていたか思い出せませんがはずれました。

8戦7勝という戦績、菊花賞以降は走っていないのでミホノブルボンに対してそれほど深い印象は正直ありません。ミホノブルボンを取り巻く関係者、ライバルには興味深いものがありました。

ミホノブルボンは栗毛でしたが派手なイメージはありませんでした。坂路で鍛えたケツの筋肉がとにかく凄かったですね。JRAのヒーロー列伝のキャッチコピーは「スパルタの風。」でした。ミホノブルボンと同じ世代の牝馬のディスコホールのタテガミが金髪で凄くキレイだったのが記憶に残っています。現在1000万下でうろうろしているアバオアクーという馬はディスコホールの孫にあたります。

ミホノブルボンを管理した戸山調教師はミホノブルボンでダービーを制した翌年の1993年にがんで亡くなっています。1993年のダービー当日にサンスポの高橋源一郎の予想コラムで戸山調教師の死を知った記憶があります。戸山厩舎が解散後のゴダゴタもリアルタイムで知っています。ミホノブルボンに騎乗していた小島貞博騎手は1995年にタヤスツヨシで再びダービーを制したています。ミホノブルボンのときよりもタヤスツヨシのときの勝利ジョッキーインタビューが印象に残っています。

映画監督の森田芳光が競馬好きでダービーの前に『Number』で予想をしていました。ミホノブルボンは消しでした。「ブルボン」という名前が気に入らないと書いていた記憶があります。

菊花賞でミホノブルボンのハナを叩いたキョウエイボーガンに乗っていた松永幹夫は今では調教師です。1992年のクラッシックに乗っていて現在も現役のジョッキーは武豊、横山典弘、田中勝春、江田照男の4人。田中勝春が乗っていたセキテイリュウオーは93年と94年の秋の天皇賞で2着になっています。ちなみにセキテイリュウオーとレインボーラインの牝系が同じことに気がきました。

改めてミホノブルボンのレースを見るとミホノブルボンは重巧者だったように見えます。皐月賞は良馬場になっていますが、春の3戦は天気がとにかく悪いですね。菊花賞も馬場が悪ければと思ったりしましたが、ライスシャワーも馬場が悪いのは苦にしていませんでした。

ご冥福をお祈りします。
鍛えて最強馬をつくる


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